1)真の幸福とは

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オミクロン株が流行る前、近所の小学校のPTAのOB / OGたちが久々に集まって飲みました。私にとって、人生の先輩方の話は興味深く、自分の生き方についていつも考えさせられます。

特に印象的だったのは、川崎で小中高生向けの学習塾を展開している経営者でした。社長であると同時に、教壇に立って今も教えています。彼は、子どもたちがいかにかわいいか、そして還暦を超えた自分がいかに子供たちから親しまれいじられているかを、語ってくれました。

受験のシーズンが来るたびに、子どもたちが最後の1人まで、皆が受験に成功するように「祈ってほしい」というメールを保護者達に打つと言っていました。彼がどれほど子どもたちに愛情を注いでいるかが、伝わってきました。

この人は真に幸せだと思いました。

彼はいつか将来死ぬときに、愛するこどもたちが元気で活躍している様子を思い浮かべながら逝くことでしょう。そして彼の教え子たちは彼の墓前に集まり、涙を流すでしょう。
愛とは人からもらい集めるものではなく、自分の「生き方」そのものだと理解しました。そしてこれこそが幸せな生き方だと理解しました。

2)循環する愛情

PTAの別の先輩がいます。この人は10年間、ずっと地域の子供たちのために地道なサポートをし続けてきました。その温かい情熱はどこから来るのか聞いたら、「自分は大阪で、地域のおっちゃん、おばちゃんたちに育てられたから」とさらりと言っていました。

そうかと、理解しました。

考えてみれば私も地域や先輩や上司から愛され、育ててもらって、今に至っていることを思いました。この愛を次の世代に返したいと、自然に思います。

自分が愛されて育ってきたということに、最初は気づかない。しかし後から気づく。それが一番いいのだと、哲学者の近内悠太氏は著書「世界は贈与でできている」の中で説明していました。自分がめちゃめちゃ愛されていることにリアルタイムで気づくと、愛に応えなければならないという呪縛を生むので。時間差があるくらいでいいのだと。

だから若い世代を愛する行為は、多少の時間差を伴いながら、循環するのだと思います。

3)社会課題の解決の切り札としての「愛情の循環」

そこで思い出しました。私が理事を務めるNPO法人STORIAの代表の佐々木綾子さんは、STORIAの設立時から「愛情の循環で貧困の連鎖を断ち切る」と言っていたことを。私はこの言葉を、あまり深く理解していませんでした。

しかしその後、私はその活動の現場を目にするようになりました。ボランティアのお兄さん、お姉さんたちが荒波にもまれる子どもたちに温かく接し、近所のお母さんたちが一緒に温かいご飯を作って一緒に食べていました。そうやって愛されて育った子供たちが中学生になり、今度はSTORIAで働くボランティアのお兄さん、お姉さんになり、子どもたちをやさしく導いていました。今、このお兄さん、お姉さんたちは、生きる力に満ちあふれています。

複雑に傷んだ家庭環境の中で、子どもたちがあまり温かい愛情を受け取れていない、または感じられていないケースがあります。子どもの貧困。貧困の連鎖。そしてDVの連鎖。様々な社会課題が私たちの周りに広がっています。しかし地域に愛される子供たちは、愛情の循環を起こす主体者になり、社会課題の連鎖を断ち切る。STORIAの活動を見ていてそう確信しました。

貧困とか孤独とか絶望とか、いろんなものを解決するための切り札として、愛情の循環は使える。そう思いました。かなり汎用的なTheory of Change(社会変革の方法論)ではないかとも思いました。

4)「愛情の循環」という概念はどこから生まれたのか

検索して調べてみたのですが、愛情の循環という概念を社会課題解決の文脈で使っている人は、佐々木綾子さん以外に見当たりませんでした。

ただ、近いことを言っていた人はいます。チャリティ・サンタを立ち上げた清輔さんは、「いつの日か、チャリティ・サンタに喜ばされた子供が、サンタの側に回る日が来る」ということを、2008年の設立時から言っていました。これはまさに愛情の循環だと思います。(この予言は成就したと聞いています)

歴史的に見ると、愛情の循環を最も大規模に引き起こした人は、やはりイエス・キリストということになるのでしょう。イエス・キリストは、人類を愛する存在としての神を提唱し、彼自身も隣人愛を説き、さらには自分を憎む敵さえも愛することを説き、それを自ら実践しつつ死を迎えたことにより、周囲の使徒たちに劇的な行動変容を起こしたのかもしれません。私は聖書学者ではありませんが、最近読んだ遠藤周作の「イエスの生涯」には、そのプロセスが丁寧に描かれていて説得的でした。

そう考えると、キリスト者である佐々木さんが、ソーシャルビジネスの枠組みを学んだ上で「愛情の循環」を提唱し始めたのは、自然なことだと感じます。STORIA自体は宗教団体ではありませんし、私はいつか出家するんじゃないのかと家族に心配される程度には仏教徒に近いですが、キリスト教はとても面白いと思いました。

5)愛かインパクトか

聖書の中で、考えさせられるシーンがあります。

マグダラのマリアが、高価な香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。それに対してユダ、のちにイエスを裏切ることになるユダが厳しい批判を浴びせます。「 なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」(ヨハネによる福音書 第12章)
衝撃を受けました。

いかにも、私自身が言いそうなことだったからです。

私はインパクト投資家です。少しでも社会的インパクトの大きくなるように、投資を振り向けようとしています。香油をイエスの足にかけるよりは、金銭のまま苦しんでいる人に分配する方がインパクトは大きくなるでしょう。少なくとも短期的には。効果的利他主義というのでしょうか。「効果」を追求したくなります。

しかし、愛情の循環こそが究極の課題解決だという立場で考えれば、マグダラのマリアの行為は愛情の顕れそのものです。

社会課題を解決に導くのは、愛情でしょうか。それともインパクトの追求でしょうか。
それともこれは対立的概念ではなく、マインドとスキルのように、両立しうるものでしょうか。
そんなことを最近考えています。結論もなく、ぐるぐると。