以下の文章は、2015年4月16日の自分のFBへの書き込み。消えないように、こちらにも転載しておきたい。

(20時間ほどリサーチをして自分のウォールに一本書きこむという究極的に非効率なことに挑戦しています)
従軍慰安婦問題について。事実を整理し、自分の考えを持ちたかった。

そこで、二人の専門家の本を読んだ。一冊は吉見義明氏の「従軍慰安婦」(岩波新書、1995)。もう一冊は、秦郁彦氏の「慰安婦と戦場の性」(新潮選書1999)。秦氏は河野談話の文言に事実と異なる箇所があるとして、河野談話の内容変更を働きかけてきた。

私は歴史学の専門家でもなく、たかだか2冊の本を読んだだけの素人だが…私の理解は現状以下の通り。

1)強制連行の有無

朝鮮半島における「官憲による強制連行」については、事実を裏付ける質の高いエビデンスが見当たらない。しかしフィリピンやインドネシア(ジャワ島スマラン慰安所事件)などで軍隊が強制的に民間人を慰安婦にした事例が事実として存在するため、日本人が海外に情報発信する際には注意が必要。

2)どうやって慰安婦を集めたのか

民間の紹介会社や女衒(ぜげん)などが、甘言、または相手の借金などの弱みに付け込む形で、慰安所に女性を送り込んだケースが多い。(個人的には、これはアウトソース先のコンプライアンス違反を止められなかった、日本の軍の責任だと思う)

3)慰安婦としての生活状況

慰安所における生活が人権侵害、尊厳否定的なものだったかどうかについては、Yes / Noの両方の個別事例が数多くある。深刻な健康被害や精神的被害を受けた例も多い。(一概に「慰安婦=高級売春婦」と断じることはできないと個人的には思う)

一言でいえば、日本統治下において、システム的に大規模な人権侵害が起きたと、私は理解した。

慰安婦を集めるプロセスについては、秦氏が以下の証言を「信憑性が高い」としてピックアップしている。

皆さんが、従軍慰安婦問題についてご自分の意見を固めるのに、有用な情報かと思うので、(余計なお世話ですみません…)一応9件の証言を全文引用したい。

A) 柴岡浩元憲兵軍曹(北満州チャムス憲兵隊)の証言

1945年7月、チャムスの軍特殊慰安所で、接客を拒否して業者になぐられていた美貌の朝鮮人女性(金城梅子)から次のような身の上話を聞き、業者に接客を禁じると申し渡した。

「私の父は北朝鮮・清津の資産家で町の有力者でした。ある時、大の親日家の父から関東軍が軍属のような立場で、歌や踊り等の慰問を募集している、男の子がいたら軍隊に志願させるところだが、その代わりに関東軍に応募してくれなか、と言った。私は女学校で音楽が得意だったので私にぴったりと思って応募したら、実は慰安所だった」(1)

B)榎本正代伍長(済南駐屯の第59師団)の証言

1941年のある日、国防婦人会による<大陸慰問団>という日本女性200人がやってきた・・・(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだと言われた・・・・皇軍相手の売春婦にさせられた。”目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。(2)

C)井上源吉憲兵曹長(中支憲兵隊)の証言

1944年6月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。

「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、2年間前に働いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇い入れたとき、親たちに払った300−500円の前借金も1、2年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。
 そこで1年に1、2度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいが、よい連絡先を持たぬ人はあくどい手を打っているらしい。軍命と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです」
(3)

D) 鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言

1940年夏の南寧占領直後に<陸軍慰安所北江郷>と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は<田舎の小学校の先生を思わせる青年>で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。(4)

E) 総山(ふさやま)孝雄少尉(近衛師団)のシンガポールでの体験

1942年、軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々に応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた…トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。(5)

F) 梁澄子(ヤンチンジャ)が挺対協の日本大使館デモに参加している元慰安婦の金ハルモニから聞いた身の上話

1937年、17歳の時に、金儲けができるという朝鮮人募集人の言葉に誘われて故郷の村を出た。どんな仕事をするかは行ってみればわかる、働いて返したあと、たんまり儲かる、そう言うので親の反対も押し切っていった。

どんなとこでもここよりましだと思って朝鮮人が経営する上海の慰安所へ行った・・・・日本のイズミ少尉に助けられ、1940年に帰郷した。日本人を憎いとは思わない。手先になった韓国人が憎いので、デモには来たが、韓国政府に対して怒ってやったつもり。
(6)

G)大岡昇平「俘虜記」より

彼(富永)はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が兵達を慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。
 彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。
(7)

H)野本金一憲兵軍曹の回想

1943年ビルマのアキャブ憲兵分隊の分駐所に勤務していたとき、慰安所のない配属部隊が村長を通じてビルマ人女性の慰安婦を募集しようと計画したことがあったが、半強制的になっては治安対策上まずいと判断して、連隊本部へ申し入れ中止させた。

I)河東三郎(海軍軍属設営隊員)の証言

1943年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が4人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。
 順番を待ち入った四号室の女は美人で、22、3歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。
(8)

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以上、全て秦氏の「慰安婦と戦場の性」(1999)からの引用。秦氏が掲載している出典は、以下の通り

(1)「憲友」81号(1997)の柴岡浩稿と柴岡談
(2)本多勝一他「天皇の軍隊」293-94ページおよび榎本談
(3)「憲友」81号の井上源吉稿と井上談
(4)鈴木卓四郎「憲兵下士官」(新人物往来社、1974)91−93ページ
(5)総山孝雄「南海のあけぼの」(叢文社、1983)150ページ
(6)尹貞玉 他 著「朝鮮人女性がみた<慰安婦問題>」230ページ
(7)大岡昇平「俘虜記」(新潮文庫、1967)374ページ
(8)河東三郎「ある軍属の物語」(日本図書センター、1992)69ページ

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以上を踏まえて、私は日本政府として以下のスタンスを取るのが良いと思う。

第一に、認めるべきことを明確に認め、不幸な歴史から学び続ける姿勢を国際社会に明確に示すこと。

第二に、事実に基づかない批判に対しては、明確に反論すること。

第三に、朝鮮人や中国人だけでなく、それ以上に数多いと推定される日本人の従軍慰安婦の存在について言及すること。この問題を、国家間の対立と捉えるのではなく、国家間をまたがった人権侵害の事例と捉えること

第四に、現在も世界中に売春強要の問題が存在することを踏まえて、その問題解決のためにNPOと連携し、汗を流すこと

以上です。

できれば、「思いやり」を持って「進んで汗を流す」国として、世界の歴史の流れにポジティブな方向で名前を刻みたい。