一人の女性が波乱に満ちた人生を生きながら歌を詠み続けて103歳。作家・歌人の田中志津の歌集が素晴らしいものでした。(「この命を書き留めん」

小千谷に生まれ、佐渡に渡り、戦争を生き抜き、酒乱の夫との修羅の日々を乗り越え、娘を喪い、いわき市で東日本大震災に合い、今は薄れゆく記憶を手繰り寄せながら歌を詠んでいます。

故郷の小千谷を詠むときに、田中志津は「鉛色」という表現を使います。

「豪雪の小千谷に生まれ鉛色 春待つ心 ひときわ強く」

そこから佐渡島に移り住みます。

「日本海 この輝きを島人に 孤島なれども無限の大志」

お父様は行政官だったようで、その凛々しい姿を詠んだ歌が残っています。

「卒業式来賓あいさつ語る父 涙浮かべる友たちの顔」

やがて著者は佐渡金山に就職します。女性事務員第一号だったそうです。

「活気満ち鉱山動く塊よ 誇りを胸に金山支え」
「電気課に京大卒技師入社して 空気一変ムード変わりて」

やがて戦争。夫は東京、著者は子供と故郷小千谷に疎開していたようです。
「焼け野原 木端みじんに壊滅す 明日の東京途方に暮れて」

夫との夫婦仲は良くなかったようで、激しい歌が多く残っています。

「酒飲まず煙草を吸わず真面目夫(つま) 何時から暴れ崩壊家庭」
「よくぞ耐え生活守り生き抜きぬ 地獄絵のごとただ子らの為」
「耐えられず娘と家出郊外へ 半年余り離れて暮らす」

夫は事業にも失敗したようです。
「経営の知識豊富に挑めども 何故に実らぬ経営学よ」

しかし修羅場の結婚生活も、夫の晩年には許しの境地に達したようです。
「今ならば許すことが可能だと 思えることが夫婦なのかと」

59歳の娘をガンで失ったことは、人生で最も悲しい出来事だったのでしょう。多くの歌が残されています。
「未明逝く娘なりしも朝焼けに 真白き富士の輝きてあり」
「悲しさに打ち砕かれて幾年よ 娘の姿今日も浮かぶ」

90歳を超え、息子と共にいわき市に移り住み、そこで東日本大震災を経験することになります。
「地面割れ海の大波漁船(ふね)踊る 小名浜港に海かもめ舞う」

そして著者はやがて100歳を超え、衰えゆく記憶を手繰り寄せながら、それでも歌を詠み続けます。

「忘却に先の会話も今はなく 初めてと聞くと戸惑う息子」
「朝日覚め身を起こしてはここはどこ いつ退院と息子に尋ね」

しかしそれでも著者の創作意欲は衰えることがありません。人生そのものを詠んだ晩年の歌は絶唱と感じられました。

「われ生きん旅路の果てにいわきの地 山河と海に心癒され」
「生きること悲しむなかれ光あり 命の炎絶やさず燃える」
「生き甲斐は生きることなり毎日を 生きる慶びこの身に刻む」

そして最後を締めくくるこの歌…。
「生きること生きねばならぬ生かされて 命のかぎりこの世を歩む」

自分もいつか、このような心境にたどり着くのでしょうか。