2月12日は司馬遼太郎の命日ということで、「菜の花忌」と呼ばれる。司馬遼太郎は、菜の花を愛したという。

その司馬遼太郎の「菜の花の沖」という名作を読んでいるビジネスパーソンが意外と少ないのが残念。

菜の花の沖の主人公は、高田屋嘉兵衛(かへえ)。淡路島の農民の子として生まれ、船乗りになって頭角を現し、やがて自らの船を持ち、北海道への航路を開拓して富をなし、アイヌの人たちに漁法を教えて漁場を開き…そして彼はロシア船に拿捕されながら、当初は言葉も通じなかったロシア人と心の交流を持つようになり、紛争を解決に導いた。
(Wikipedia)

起業家として成功した人である。同時に、インパクト起業家として地域に貢献し、官民にわたるトライセクター・リーダーシップを発揮した人でもある。さらに、命の危機に直面しながら国家間の平和のために尽力した志の人でもある。

司馬遼太郎は「菜の花の沖」の中で、高田屋嘉兵衛に次のような言葉を語らせている。

 「わしらは、武士ではない」嘉兵衛は、嘉蔵らに口ぐせのようにいってきた。かれがいう場合、武士とは、有閑階級をさす。あるいは空論の徒をさし、賄賂(まかない)役人という意味もふくみ、また責任のがれしか考えていない身分渡世者をさす。

 「わしらの学問も武士の学問とはちがうのだ。海をゆき陸(おか)を歩き、物という物を、並はずれた熱心さで見、身をかがめて人の話をきき、夜は夜でたえず思案していることでできあがる学問だ」
(中略)

「わしらは武士とはちがい、かたときも油断があるべきでない。加太の陸にあがれば、その土地の漁の仕方や漁師の稼ぎ方をきく。または干鰯なら干鰯の売値がいくらでどこへ売るかをきく」

フィールドワークの連続で自分なりの知の体系を作り上げた姿を描写していて、興味深い。

当時高田屋嘉兵衛と交流したロシア人は、「日本幽囚記」という本の中で彼の人格を見事に描写している。その本を読んで日本に惹かれたニコライという若者が、その後司祭となって来日、日本に移住し、お茶ノ水に聖堂(いわゆる「ニコライ堂」)を建築した。

それほどのインパクトをロシア人の一青年に与えたほどの人格。驚きだ。
菜の花