「コミュニケーション能力」という言葉を、私は安易に使ってきたかもしれない。塩竃で羽生さんに出会うまでは。羽生さんは私が知る限り最高のコミュニケ―ターだ。
出身は愛媛県西条市。西日本で1番高い 石鎚山を見ながら育った。母子家庭だった。兄弟が3人。生活は苦しかったが、幸福だった。
小学校の時は、耳が聞こえていた。足が速く勉強も出来て、クラスの人気者だった。しかし母親も兄弟も聴覚障害者で、彼の聴覚も次第に失われていった。
中学1年で聴覚を失った。学校についていけない。羽生さんは聴覚障害者向けの支援学校に行くことを自分で決めた。松山へ移り、寮に入った。
しかし支援学校の中で、彼は浮いた存在だった。手話が上手く使えない。他の友達とコミュニケーションを取れない。
その時に2学年上の先輩が、羽生さんのことを心配して声をかけてくれた。
「手話が下手なのは仕方ない」
先輩は言った。
「しかし話したいと思う気持ちを外に出した方がいい」
羽生さんはハッとした。コミュニケーションの「手段」の問題ではない。まずは自分の気持ちを開こう。
次第に友人が増えてきた。様々な生徒に積極的に手話で話しかけた。生徒会長になった。中学・高校と陸上部に所属していた。中学の時には100m走で全国大会に出場した。聴覚障害があっても自分の道は日本中に開けている。羽生さんはそう感じるようになった。
大学に進学する資金はないと母親に言われた。羽生さんは奨学金を得て、四国学院大学(香川)に進学した。バイトをして生活費を稼いだ。
しかしここでも羽生さんは、聴覚障害者の友人たちとの間に溝を感じた。友人たちの多くは、耳が聞こえる人が自分たちのために情報を提供することが当然の義務だと考えているようだった。羽生さんの考えは違った。自分たち聴覚障害者の方が、健常者に積極的に働きかけるべきだと考えていた。
全く同じ考えを持っていた女性がいた。学食の職員だった。その女性(薫さん)も聴覚を失っていた。栄養士の資格を取って学食で働いていた。
羽生さんはこの薫さんに強く惹かれるのを感じた。しかし薫さんは、大学の先輩と交際していた。この先輩と会うために宮城県から香川県まで転居してきたという話を聞いて、その行動力に羽生さんは衝撃を受けた。
羽生さんはそれまで、日本語教師になりたいと考えていた。しかし薫さんと出会い、羽生さんは料理の道に関心を持つようになった。大学を2年で退学した。奨学金を返すために岡山で派遣社員として(その後は派遣会社の正社員として)働いた。薫さんのことを忘れられなかった。薫さんは既に先輩とは別れ、宮城県の登米市の実家に戻っていると聞いていた。
羽生さんは宮城に飛んだ。友人から聞いた薫さんのメールアドレスに、突然連絡を取った。5年ぶりに再会した。
羽生さんは手話で「結婚してほしい」と言った。当然ながら、断られた。3日間の旅行期間のうちに3回プロポーズして、3回断られた。しかし4回目、「そこまで言うなら付き合ってみる?」と返事をもらった。
2か月後羽生さんは、岡山の仕事をやめて宮城に移住し、その2年後に薫さんと婚約した。
羽生さんは宮城県で、調理とパン作りの勉強をしていた。そして就職したのが、塩釜の愛さんさん宅食。代表の小尾さんの起業家精神に触れたのが大きな転機になった。
震災の後羽生さんは、塩竃近くの浦戸諸島を訪れた。津波の被害が大きかった。復旧工事が進んでいない。しかし外から来るボランティアを笑顔で受け入れてくれる浦戸諸島の人たちに魅了された。この地域のために何かしたい。羽生さんは浦戸諸島でラベンダーを育て、それを使った酵母でパンを作るプロジェクトを立ち上げた。
羽生さんは心のバリアを乗り越える起業家になっていた。健常者と聴覚障害者、両方の心理を理解できる。飲食店のスタッフにも、会社の投資家にも、そして被災地の人たちにもどんどん話しかける。耳は聞こえないが、口の動きと心の動きを丁寧に観察すれば大丈夫だと思う。
だから私は、羽生さんを尊敬する。羽生さんは、彼自身の障害が生んだ最強のコミュニケ―ターだと思う。
追記)
羽生さんは現在、クラウドファンディングに挑戦中です。
https://readyfor.jp/projects/uratonohana
出身は愛媛県西条市。西日本で1番高い 石鎚山を見ながら育った。母子家庭だった。兄弟が3人。生活は苦しかったが、幸福だった。
小学校の時は、耳が聞こえていた。足が速く勉強も出来て、クラスの人気者だった。しかし母親も兄弟も聴覚障害者で、彼の聴覚も次第に失われていった。
中学1年で聴覚を失った。学校についていけない。羽生さんは聴覚障害者向けの支援学校に行くことを自分で決めた。松山へ移り、寮に入った。
しかし支援学校の中で、彼は浮いた存在だった。手話が上手く使えない。他の友達とコミュニケーションを取れない。
その時に2学年上の先輩が、羽生さんのことを心配して声をかけてくれた。
「手話が下手なのは仕方ない」
先輩は言った。
「しかし話したいと思う気持ちを外に出した方がいい」
羽生さんはハッとした。コミュニケーションの「手段」の問題ではない。まずは自分の気持ちを開こう。
次第に友人が増えてきた。様々な生徒に積極的に手話で話しかけた。生徒会長になった。中学・高校と陸上部に所属していた。中学の時には100m走で全国大会に出場した。聴覚障害があっても自分の道は日本中に開けている。羽生さんはそう感じるようになった。
大学に進学する資金はないと母親に言われた。羽生さんは奨学金を得て、四国学院大学(香川)に進学した。バイトをして生活費を稼いだ。
しかしここでも羽生さんは、聴覚障害者の友人たちとの間に溝を感じた。友人たちの多くは、耳が聞こえる人が自分たちのために情報を提供することが当然の義務だと考えているようだった。羽生さんの考えは違った。自分たち聴覚障害者の方が、健常者に積極的に働きかけるべきだと考えていた。
全く同じ考えを持っていた女性がいた。学食の職員だった。その女性(薫さん)も聴覚を失っていた。栄養士の資格を取って学食で働いていた。
羽生さんはこの薫さんに強く惹かれるのを感じた。しかし薫さんは、大学の先輩と交際していた。この先輩と会うために宮城県から香川県まで転居してきたという話を聞いて、その行動力に羽生さんは衝撃を受けた。
羽生さんはそれまで、日本語教師になりたいと考えていた。しかし薫さんと出会い、羽生さんは料理の道に関心を持つようになった。大学を2年で退学した。奨学金を返すために岡山で派遣社員として(その後は派遣会社の正社員として)働いた。薫さんのことを忘れられなかった。薫さんは既に先輩とは別れ、宮城県の登米市の実家に戻っていると聞いていた。
羽生さんは宮城に飛んだ。友人から聞いた薫さんのメールアドレスに、突然連絡を取った。5年ぶりに再会した。
羽生さんは手話で「結婚してほしい」と言った。当然ながら、断られた。3日間の旅行期間のうちに3回プロポーズして、3回断られた。しかし4回目、「そこまで言うなら付き合ってみる?」と返事をもらった。
2か月後羽生さんは、岡山の仕事をやめて宮城に移住し、その2年後に薫さんと婚約した。
羽生さんは宮城県で、調理とパン作りの勉強をしていた。そして就職したのが、塩釜の愛さんさん宅食。代表の小尾さんの起業家精神に触れたのが大きな転機になった。
震災の後羽生さんは、塩竃近くの浦戸諸島を訪れた。津波の被害が大きかった。復旧工事が進んでいない。しかし外から来るボランティアを笑顔で受け入れてくれる浦戸諸島の人たちに魅了された。この地域のために何かしたい。羽生さんは浦戸諸島でラベンダーを育て、それを使った酵母でパンを作るプロジェクトを立ち上げた。
羽生さんは心のバリアを乗り越える起業家になっていた。健常者と聴覚障害者、両方の心理を理解できる。飲食店のスタッフにも、会社の投資家にも、そして被災地の人たちにもどんどん話しかける。耳は聞こえないが、口の動きと心の動きを丁寧に観察すれば大丈夫だと思う。
だから私は、羽生さんを尊敬する。羽生さんは、彼自身の障害が生んだ最強のコミュニケ―ターだと思う。
追記)
羽生さんは現在、クラウドファンディングに挑戦中です。
https://readyfor.jp/projects/uratonohana
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