「死生観を持つことが重要」という言葉をよく聞くけれど、具体的にどのような「死生観」があるのかは、整理されていない気がした。

なので我流で整理してみました。上下の順番にはあまり意味はありませんが、上の方がビジネスパーソン的で、下の方が宗教者的と言えるかもしれません。

1)命=社会貢献の道具(死後:価値ある「社会」が残る)

自分の命よりも大きな、より重要な価値のために、命を「使う」という考え方。いわゆる「使命感」は、このような死生観から生まれることが多い。女川でギターを作っている梶屋陽介氏のインタビューをしたときに、彼は「命を使う」という言葉を何度も使った。幼いころから、地域の葬儀によく参列し、死を身近に感じるようになったことが、その背景だという。

グロービスの堀さんはよく、「世代の責任」という言葉を使う。自分たちの世代が力を合わせて、社会を良くし、次の世代に引き継ぐ責任を負っているという考え方なのだろう。この場合「命」は、社会的価値をリレーしていくための道具として使われる。

多くの場合、自分が命を使っても、自分だけでは社会にどれだけ影響が残ったのか明確でない場合も多い。しかしそれでも、黄河の流れの中の一粒の水として流れ切ることが、全体の流れのために重要なのだと考えることができる。マハトマ・ガンジーの言葉で、「私は結果を見とどけようとは思わない。私の最小の義務を果すだけである。それ以上のことは人間にはゆるされていない」(注1)

2)命=価値あるもののために使いきることが善であり美(死後:名誉が残る)

1番の「社会貢献の道具」という考え方と非常に近い。ただし微妙な違いが2点ある。第一に、「社会」というよりは、「愛するもの」だったり、「崇拝するもの」だったりする。

例えば武士道は、主君のために命を使うことを尊しとする。第二に、死後に美名を残すかどうかに、若干の執着が残る。例えば武士道の「切腹」は、美しい死に方をすることを尊しとする。つまり、「主君」などは究極的なゴールではない。究極的なゴールは、自分自身の命を究極の芸術品として仕上げ、「名を残す」こと。

武士道をイメージしながらここまで書いたが、日本だけの考え方ではない。

例えば中国、南宋を守り最後まで元(モンゴル)と戦った文天祥は、元に捕えられた後にフビライに仕えることを拒否して死を選び、有名な「正気の歌」を残している。
http://bit.ly/1OQR38N

これは、歴史を突き動かす「正気」に従って自分の命を終えることに価値を置く考え方で、藤田東湖をはじめ、幕末の志士たちに強い影響を与えた詩。美しい歴史を残すために自分の命を使うことに、一切迷いが感じられない。また文天祥は死を目前にして、次のような言葉を残している。

人生、古(いにしえ)より誰か死無からん
丹心を留め得て汗青(歴史)を照らさん

歴史を照らす存在として自分の存在を刻みつけたいという思いがわかる。社会貢献のためだったら、元の官僚として治世に協力した方が良いはずだ。しかし文天祥は、自己の存在を完璧に歴史に残すことに、より重きを置いた。

3)命=悔いなく燃やすことが全て(死後=無)


どのような命の燃やし方が「悔いない」かは、人によって大きく異なる。創作活動に命を燃やすこともある。旅に出て多くの風景を見、多くの人と会うことで「悔いを残さない」こともある。また野心や自信を大切にし、起業家としてベンチャーを設立したり、冒険家として冬山の頂を目指したりすることもある。

哲学者の三木清に、「一種のスポーツとして成功を追求するものは健全である」という言葉がある。(注2)ここで言う成功追求の目的は問わない。やりたいことを「とことんやる」ための貴重な機会として、人生をとらえる。
岡本太郎に、「生きるとは、死と直面して戦うことである。そこに真の生きがいがある。」(注3)という言葉がある。死を強烈に意識することで、今の貴重な「生」を激しく燃やそうという意思を得ることは、特に被災地の起業家たちの間で多く見られた。

4)命=理想の自分像を作ることが全て(死後=?)

自己の理想の人格を作り上げることを、人生のゴールとする考え方。死後のことには関心を抱かない。

代表選手は、孔子だろう。論語に以下の言葉がある。

「季路鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能わず、いずくんぞ能く鬼に事えん。敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」(先進篇)
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koy…/archives/11892766.html

「生」のことですら、まだ知らない。「死」のことなんか、知るもんか。死後のことに無関心を貫き、良い「生」を生きることに集中する、孔子のスタンス。

ローマのストア哲学にも、同様の考え方が見られる。例えばセネカは、「最高善とは、様々な事象に精通し、行動するに冷静沈着、かつ深い人間性と、交わる人々への気遣いとを伴った不屈の精神力」「(永続的な)徳に喜びを見出し、偶然的なもの(病や死を含む)を軽視する精神である」と書いている。(注4)

またマルクス・アウレリウスの「自省録」を読めば、最終的には自分のことは誰の記憶にも残らないという前提で、それでも徳を高め続けることにゴールを置いている。自身の人格を理想的状態(「徳」)に近づけようとしている。

5)命=貴重な機会であり、感謝し、愛しむもの

上記1-4は、命を道具「使う」ことに重きを置いている。一方で、与えられた命に感謝し、これをいつくしむ死生観がある。例えば精神医学者の神谷美恵子は、亡くなる前に最後の入院生活中に、以下の詩を書き遺している。

ふしぎな病を与えられ
もう余り生きる日の少なきを知れば
人は一日一日を奇跡のように頂く
ありうべからざる生として

まだみどりも花も見ることができ
まだ蓮の花咲く池のほとりをめぐり
野鳥の森の朝のさわやかさを
味わえることのふしぎさよ
(神谷美恵子「うつわの歌」)

終末期の患者は、このような心境に達し、外界の全て(動物や植物など)が光り輝いて見えるという。平時からこのような心境で一日、一日を生きられたら、どれほど心豊かな人生になるだろうか。

6)命=生きることは与えられた義務(死後:真の幸福または安寧)

全宇宙の中で地球があり、水と酸素があり、自分という命が生まれ出たことは大いなる偶然と考え、その中で与えられた「生」に感謝し、これを懸命に生きることを「義務」と考える。

インドの詩人タゴールの詩

私は眠り 夢を見る、
生きることが喜びだったら と。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く すると ごらん、
義務は喜びだった。
(「それでも人生にイエスと言う」V.E.フランクルより)

人生を「義務」と捕えることによって、全ての困難は命を崇高に輝かせるファクターとして理解されるようになる。ユダヤ人としてナチスの強制収容所を生き抜いた精神医学者のフランクルが、絶望的な状況にも関わらず価値ある生を生ききった仲間たちを見て、到達した哲学。

7)死ー命ー死(死と生はつながっていて、自然に流れ、全体に統合されるのみ)

地球上で大量の命が生み出され、タンパク質が生まれ、それが死んで自然の中でリサイクルされると考える。チベット仏教では、死体を鳥に食べさせる「鳥葬」という習慣がある。これは、遺体を積極的に活かし、自然へのリサイクルを促進するという考え方。

「促進」までいかなくても、「生」と「死」をつながったものとして、平然と受け入れることに価値を置く考え方は、仏教や老荘思想でも見られる。荘子に「死生は一条」という言葉がある。縒り合わされた一本の縄のようなものと考える。

1-6の考え方が、生に意味を持たせようとするのに対し、6の考え方は「生も死も、別に大した意味はないけど、それがどうかした?」と開き直る。その上で、「今を生きる」ことに集中しようとする。

8)良い「生」-->神仏を満足 -->死後の幸福

神や仏の期待に添うような良い人生を生きることで、死後に天国に行けたり、または永遠の命を与えられたりするという宗教的な考え方。「証拠がない」といって批判する人も多いが、まだ反証もされていない。このような宗教的な考え方が、死を恐れる多くの人たちの心を救ってきたことも、また事実。
以上です。

上記の1-8はMECEではなく、複数の死生観を併せ持っている人も多いと思います。また、私がまだ理解できていない、豊かな死生観もあることと思います。

人生の位置づけも(もちろん「志」も)、死生観次第で変わってくるところが、興味深いです。

以上、まだ43歳で死に直面したこともなく、未成熟な人間のメモでしかありませんので、鵜呑みにせぬようお願いします。

注1)「ハリジャン」1947年より。坂本徳松「ガンジー」(1966年旺文社)からの引用
注2)三木清「人生論ノート」(新潮文庫)
注3)鎌田勝「リーダーシップ名言集」(知的生き方文庫)より引用
注4)セネカ「生の短さについて 他二篇」岩波文庫