東北学院大学で民俗学を専攻した「アガツマくん」という人がいた。

民俗学というのは、特定の地域に密着して、文化や風習、そしてそこでの人の生き方を深くつかみ取る学問。アガツマくんは、その研究のため、2005年の3月に南三陸の波伝谷(はでんや)という集落に入った。
素晴らしい祭りがあった。非日常を経験した。逆に「日常」がどんな様子なのか、知りたいと思った。
アガツマ君は、2008年3月の卒業と同時に、カメラを持って波伝谷に戻った。自主制作映画を撮ろうとした。波伝谷の人たちは、アガツマ君を温かく迎えてくれた。

「アガツマくん、飲みなよ」
「アガツマくん、食べなよ」

波伝谷の人たちがカメラを気にせず、アガツマ君に語りかける様子が、多くカメラに残された。

しかしアガツマくんは、怖かった。地元の人たちに対する遠慮もあった。相手の人生の大事な部分に踏み込んでいかなければ、良い映画は撮れない。しかし自分が傷つくのが怖かった。

撮影している間、夜は波伝谷の人たちの夢を見た。毎日毎日見続けた。それでも車で波伝谷に向かう時には陰鬱な気持ちになった。しかし帰り道には「やっぱり来てよかった」と泣きながら運転することもあった。

「伝える人間(映画監督)」と「一個人(アガツマくん)」の間でもがき続けた3年間だった。

そしてアガツマくんは、2011年3月11日、映画の試写会の日取りを決めようと、波伝谷に向かった。しかし途中で地震が起き、波伝谷まであと一歩というところで津波に遭遇した。翌日目にしたものは、すっかり形を変えた波伝谷の姿だった。

3月14日、アガツマくんは波伝谷を出た。「またすぐ戻ってきますから」という言葉を残して。

しかしその後、アガツマくんは波伝谷に戻れなくなってしまった。それまで、合計6年間交流を続けてきた波伝谷の人たちと、どう関われば良いのか。アガツマくんは分からなくなってしまった。

「アガツマくん」と呼びかけてくれた波伝谷の人たちの中には、亡くなった方もいた。自分はいったい何者として波伝谷に戻れば良いのか。映画監督として?まっさらなボランティアとして?波伝谷を第二の故郷と仰ぐ人間として?考えれば考えるほどアガツマくんは答えを見失い、波伝谷に戻れなくなっていった。

苦しかった。

それでもアガツマくんは波伝谷に戻った。映画監督として。

そして震災後の撮影を進めながら、アガツマくんは懸命に、それまで撮りためた映像の編集を続けた。震災の映画ではない。震災の映画の中では、震災前の日常の光景は「震災後」を引き立てる映像になってしまう。それは違う。あの濃密な、震災前の温かい波伝谷の日々を表現しなければいけない。それが自分が果たすべき役割だと思った。

こうして編集に3年かけて、映画ができた。完全自主製作であり、かつ無名の若手監督にとって、映画公開は容易ではない。「宣伝」と「資金繰り」の両方の課題をクリアしなければならない。既に全財産を映画製作に投じてしまったアガツマくん。クラウドファンディングに挑戦した。
https://motion-gallery.net/projects/hadenyani_ikiru

現在(3月31日16:30)アガツマくん ---ピーストゥリー・プロダクツの我妻和樹監督は、3月31日24時のファンディング締切に向けて、懸命に走り続けている。今もPCの画面をにらみ、懸命に協力依頼の文章を打ち続けながら。