自宅で深々と日本酒を飲み続けた結果、泥酔した。泥酔した時には、泥酔したなりの文章を書く。そんな時でなければ書けない文章があるだろう。明朝素面に戻った時には、この文章を削除する可能性大だが、どうかあしからず。

そもそも日本酒を飲んでいるのには、二つ理由がある。一つは、GRAの新会社設立のリリースだ。NECと産業革新機構が出資をするというのは、嬉しいニュースだった。投資、払い込みの瞬間まで喜んではいけないと、自分を戒めていた。それだけに、週末仙台校で塔本さんに「払い込まれました」と聞いた瞬間は、嬉しかった。

二つ目の理由は、ここに美味しい酒があるからだ。この酒を送ってくれたのはハシグチという先生で、彼は酔っ払うと枝豆を鼻の穴から連射することができるのだ。彼を見ると、私はまだ人生修業が足りないと感じる。「生きよ。堕ちよ。」という言葉があるが、私はまだ堕ちっぷりが彼の1/100くらいだ。

そのくせ、彼の書くブログは素晴らしく、私は留学中に夢中になって彼の文章を読んだ。彼がお父さんを亡くした時には、ブログを読んで涙を流した。泥酔者というのは、意外と油断できない存在だ。

今日は、イワキ先生のことを書く。3年ほど前に一度、泥酔時に突発的に少し書いたことがあるが、より包括的に書くと決めた。

イワキ先生は、私が小学校3-4年の時の担任だった。推定身長180cm。黒縁の眼鏡。短い頭髪。歩くときには上体を曲げて、ロケットのように早歩きをした。私は一時期、イワキ先生の歩き方の真似をしていた。

イワキ先生は、めちゃくちゃだった。生徒が言うことを聞かなかったり、忘れ物をすると、ゲンコツで頭を叩いた。普通のゲンコツではなかった。中指を1.5cmほど隆起させ、位置エネルギーと運動エネルギーを中指の第二関節先端に集中させた、かなり危険なゲンコツだった。

男子には厳しいくせに、女子には露骨にやさしかった。特にかわいい女の子に対しては明確に「かわいい」といい、「お前はクラスで一番かわいい」とか「二番目にかわいいと思ってたけど、最近お前の方がかわいいような気がしてきた」とか言葉にして表現する点は、後で振り返って考えてみるとかなり問題が大きかった。

ただし、可愛い子にだけ優しかったのではない。極度に肥満症の子がいた。イワキ先生はその子のことを気遣い、ランニングを勧めていた。非常に気にかけていた。

イワキ先生は、私に対してひどく厳しかった。テストの時には、漢字のわずかな留めやハネの不正確さに対して、容赦なくバツをつけた。当時岩城先生が採点した漢字テストが、今でも私の手元に残っている。そこには、「ダメ!ダメ!そんな礼二はうちのクラスにいりません」と赤字で書いてある。(点数は35点だった)

そんな厳しさが続いた後、私は怒りに燃えて、一度完璧に美しい漢字を書き連ねてテストを提出した。答案用紙を見てイワキ先生は、「礼二は、厳しくすればするほど伸びるんだな…。」と小さい声でつぶやいた。この一言は、今でも私の耳に残って離れない。厳しい状況に直面するたびに、イワキ先生が頭の中に登場する。

母は、私の小学校時代の通知表を保存していた。(写真)これを見ると、イワキ先生が私の長所と短所を両方明確に把握していたことがわかる。「学用品の忘れ物を少なくすること、朝登校する時刻をあと10分早くするようにしてほしいものです。」というのは、今にまで続く私の欠点を明確に表している。

イワキ先生は、授業中に「子供は宝だ」と言った。「どうしてだか、わかるか?」と聞いた先生に対して、ませガキだった私は、「子供が将来お金を稼いで、自分を養ってくれるからでしょ」と言った。イワキ先生は、違うと言った。しかしなぜ子供が宝なのか、答えを教えてくれなかった。

その答えがわかったのは数ヶ月後、イワキ先生が自分の子供を学校に連れてきた時だった。イワキ先生は、子供を肩車して、幸せそうに笑っていた。私はそれを見て直観的に、「子供は親にとって宝なのだ」ということを理解した。経済的価値ではなく、子供が生きているという事実自体が「宝」なのだと悟った。

3-4年の時には一切いじめはなかった。イワキ先生が許さなかった。一度、クラスメイトが6年生のこども数名にからかわれ、皆の前で強制的にズボンを下ろされたことがあった。それを聞いてイワキ先生は黙って、いきなり教室を出ていった。4年1組の私たちの教室は、教師のいない状態になってしまった。

5分後、イワキ先生が帰ってきた。なんと、クラスメイトをからかった6年生を2名捕まえ、襟をつかんで帰ってきた。イワキ先生は、この6年生二人に、土下座をさせた。いじめたクラスメイトの前で、土下座をさせて謝らせた。声を荒げたわけではなかったが、イワキ先生の目の奥に燃えたあまりの怒りに、6年生二人は畏怖し、素直に謝った。

私の母は、当時クラスのPTA代表だった。20年後に母は当時を振り返って、「あの時のイワキ先生はいろいろ問題があって大変だった」と私に言った。私に言わせれば、母の方がいろいろ問題のある保護者で先生は大変だったことと思うが、当時はそんな緊張関係にも一切気づかなかった。

イワキ先生は、私たちに作文を書くことを勧めた。男子と女子の対抗で、作文の本数を競い合った。男子全員、女子全員が、400字以上の作文を書くたびに、直径1cmの緑色の円形シールを名簿の横に貼っていった。シールの合計枚数で、男子と女子が競い合った。何の賞品が出るわけでもなかったが、クラス全体がこの勝負に熱中した。

男子のトップは、私だった。私はいくらでも駄文を書けた。一日に3-4本の作文を書くことも、楽勝だった。私以外にも良い書き手がいて、シールの数は圧倒的に男子が女子を上回っていた。

しかしイワキ先生は、一つのルールを設けていた。男子が勝つためには、全員の男子が、少なくとも(1か月に)3本以上の作文を書かなければいけない。誰かが3本未満だった場合、自動的に男子は敗北となる。

男子には、コージという男がいた。コージは6人兄弟の末っ子で、身体は大きいが気は弱く、授業中にもトイレに行けずオシッコを漏らしてしまうような男だった。このコージが、驚異的な作文コンプレックスを持っていた。

コージは一本も作文を書けなかった。このままでは、男子チームの敗北である。男女の勝敗が決まる日の前日、コージは何としても作文を書かなければならないと自分を責めて、私の家に来た。私の家に来れば、何か文章をひねりだせると思ったのだろうか。

翌日、結果が発表された。コージは一本しか作文を書けなかった。

男子チームは自動的に、敗北となった。男子チーム(約20名)は沈黙し、誰もがコージに対して怒りを感じた。

イワキ先生はその時、クラス全員の前に椅子を出して、そこに座った。そして、コージが書いたたった一本の作文を読み始めた。

その作文には、作文を書こうとしても書けない、コージの苦しい心情が綴られていた。れいじも、XXXくんも、皆自分のことを責めるだろう。自分一人のために、男子全員に迷惑をかけてしまって、申し訳ない。それでも自分は文章を書けない。そう書いてあった。

コージの苦しみが伝わってきた。イワキ先生は淡々とそれを読み上げ、何のコメントを加えることもなく、作文を折り畳み、椅子を元に戻した。

その瞬間、私は悟った。私が書いてきた作文は、何の価値もないゴミのようなものだと。何十本書こうと、何百本書こうと、軽いエッセイのような私の無駄な文章よりも、作文コンプレックスのコージが血の涙を流す思いで書いた一本の文章の方が価値がある。イワキ先生は何も言わなかったが、私はそのことを悟った。

私のクラスに、市議会議員の子供がいた。その子供がクラスをひどく荒らした時に、イワキ先生は子供を机の上にうつ伏せに押さえつけて、尻をバンバンと12回ほど叩いた。

そして翌年イワキ先生は、どこか遠い小学校に飛ばされた。

イワキ先生との最後の会話は、今でも覚えている。職員室に行って、私は聞いた。

「イワキ先生、他の学校に行っちゃうんですか?」

イワキ先生は質問に答えず、「なんで?」と私に聞き返した。私は何も言えず、沈黙した。それが最後の会話だった。いや、イワキ先生はもう一言言った。

「井上先生は立派な先生だよ」

井上先生は、60才近いベテランの教師だった。イワキ先生がよく、井上先生と一緒に小学校から帰っているところを、私は目にしていた。

そして私は5年生になった。イワキ先生は、もはや小学校にいなかった。井上先生が私の担任になった。

激烈ないじめが始まった。

私はまだ恵まれた方だった。私以上にいじめられた級友が、3人はいた。授業中はもちろん、いじめられることがない。危険なのは休み時間と、放課後だった。複数の級友から際限なくプロレス技をかけ続けらるのは、苦痛が大きかった。だから私たちはクラスが「終わると、全速力で自宅に帰った。今でもフルマラソンを4時間で走れる私の脚力は、この時に養われたと言っても過言ではない。

一番いじめられたのは、コージだった。

私たちは(たぶん私だけではなかったと思う)、心の中でイワキ先生の名前を呼び続けた。こんな苦しい時に、なぜイワキ先生がいないのだと。イワキ先生が一喝すればイジメなど瞬間的になくなるのに…。(井上先生は素晴らしい先生だったが、いじめを止めることはできなかった。)

そして私たちは卒業した。卒業式が終わった後も、全力で走って帰宅したので、級友に挨拶はしていない。私立中学校に進学したため、あの時の級友達にはほとんど会っていない。私たちに暴力を振るった級友たちにも。コージにも。

それから24年が経ち、私は大学院の教員になった。27年経ったとき、私は酔っ払って「イワキ先生について」という短い文章をFacebookに書いた。思いのほか多くの「いいね!」がついて、私はうろたえた。私は、自分の小学校の名前も、イワキ先生の名前も実名で書いた。まさかとは思うが、これを書くことでひょっとしたら、イワキ先生に再会できるかもしれないと、かすかな希望を抱いていた。

30年が経った。2015年3月1日、私は大学院の新任講師に対する研修を担当した。自身の「教育理念」を確立する研修だった。

新任講師の皆さんに、私は聞いた。

「皆さんはどのような教育者になりたいと思いますか?」
「そう思ったきっかけは、何ですか?」

新任講師の人に、逆に聞かれた。「山中さんにとっては、どのような出来事を通じて、自身の『理念』ができたのですか?」

私は短く、イワキ先生の話をした。

「そのことが山中さんに、どのような影響を与えたんですか?」と聞かれた。

私は答えられず、笑ってごまかした。正直に言えば、イワキ先生が自分にどのような影響を与えたのか、私にはわからなかった。言語化しようもなかった。

2015年3月8日、私は自分が昔書いたブログの管理画面を開いた。イワキ先生について書いた短い文章に対して、3月8日付でコメントがついていた。

イワキ先生の奥様だった。

「今日、この文章を読ませいただきました。主人は、平成24年に逝去しました。若き日の主人の様子が眼に浮かぶように分かり、嬉しく思いました。主人の心をよく理解してくださり本当にありがとうございます。今後のあなた様のさらなるご活躍をお祈りします。」

これだけの文章だった。

私は衝撃を受けた。改めて、イワキ先生のフルネームを入力し、検索をしまくった。

イワキ先生が、どうやら青梅市で2011年まで、教師を務めていたらしいことがわかり、無性にうれしかった。どれだけ多くの子供たちがイワキ先生の愛情を受けたことかと思うと、うれしかった。しかし同時に、そのイワキ先生がもう、ご存命でないということが、悲しかった。私は喜びながら泣いた。

そして3月17日の午前1:00、私は未だに「自分がイワキ先生にどのような影響を受けたか」を言語化することができない。

ただ、奥様からメールをいただいた後、イワキ先生の言動を思い起こし、確信に至ったことがある。

第一に、イワキ先生は一度も、自分の考えを私たちに押し付けなかった。作文で勝負した時も、「子どもは宝」の話をした時も、イワキ先生はいつも黙っていた。私たちが自分の頭で考えることを、暗黙のうちに促していたのかもしれない。

第二に、イワキ先生が子供たちに注いだ愛情はハンパないものだった。一部暴力的だったり、一部問題発言もあり、おそらく近年の学校教育の中ではNGだと思うが、それでもイワキ先生は常に全力で私たちに向き合ってくれた。

今でも私は、泥酔すると無性にイワキ先生に会いたくなる。もうご存命でないと知ったのは悲しい事実だが、逆にいつでもイワキ先生に会えるような、そんな感覚もあって少し心が温かくなる。

通知表