他の地域のPTA会長と情報交換をしていて、「自転車おじさん」の話を聞いたことがある。

その地域に出没する「自転車おじさん」は、ボランティア活動的に自転車の整理をするのが好きらしい。
運動会の時、自転車おじさんが出没すると…保護者の乗ってくる自転車を緻密に適切な場所に誘導し、駐輪させる。

自転車おじさんが整理した後の駐輪スペースは、芸術的な美しさに包まれている。すべての自転車のハンドルが、プラスマイナス5度の誤差で同じ方向に傾斜している。

その様子は、そのまま前衛的なアートとして東京都現代美術館に収容されても良いほどだという。

ここまでは笑い話。

しかしこの自転車おじさんは、自転車の並べ方について尋常でない高い水準を要求する。しばしばトラブルが起きる。保護者を怒鳴りつけることもある。

それを嫌った校長が、自転車おじさんのボランティアを断った。するとおじさんは、校長室にまで押し掛けてきた。怒鳴りまくる自転車おじさんを退去させるため、校長は警察に通報したという。

この話を聞いて笑い、帰宅した後で、一つの疑問が私の頭から離れなくなった。

それは、「自転車おじさんと、自分との間に、何か違いはあるのだろうか」ということ。

当時私は、小学校のPTA会長を務めていた。地域を愛し、学校を愛し、地域貢献的な活動をして、そして「気持ちよくなっている」自分。自転車おじさんと何ら変わりはない。

しかも私も独善的なところがある。交通安全活動をしているときには、子供たちの目の前で信号無視をする大人に腹を立て、その大人全員に口頭で文句を言ったこともある。

であれば、この「自転車おじさん」と自分との間には、本質的な差はない。ほとんどない。紙一重の差しかない。
その「紙一重」はどこにあるのか。紙一重の差を作るとしたら、どこに作れるのだろうか。

自分の結論は、「クリティカル・シンキング」ということだった。つまり、自分の社会貢献が、実際のところどれほど有意義な貢献になっているのかを、クリティカルに内省する心。別の言葉で言えば、「実際のところ大して社会に貢献していない自分」を、冷めた目で見れるかどうか。それくらいしかないのではないか。

もう一つだけ、「紙一重」の切り口がある。それは、「社会に貢献させてもらっていることを、有難い」と感じられるかどうか。

「一リットルの涙」というノンフィクションがある。主人公の女の子は、次第に身体が動かなくなっていく病に侵され、やがて死を迎える。そんな彼女が最も気に病んでいたのは、「自分が家族に、そして社会に迷惑をかけるばかりで、全く貢献できるチャンスがない」ということだった。

そんな彼女に比べると、ささやかではありながら人のために働く機会を得ている自分は、どれほど恵まれていることか。なんと「有難い」ことか。

「クリティカルシンキング」と「有難い」心。この二つを身につけられたとき、自分はおそらく「自転車おじさん」と少しだけ、紙一重だけ違った存在になれるような気がする。