昨年読んだ本の中で、かなり自分に強いインパクトを与えたものは、旧約聖書の「ヨブ記」だった。

「ヨブ記」は、奇妙なストーリーだと思う。ざっと説明すると、以下のような流れである。

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神を恐れ、敬い、道徳的にも信仰においても非の打ちどころのない暮らしを続けていたヨブという男がいた。息子が7人、娘が3人、羊7000頭、ラクダ3000頭など多くの財産を持ち、幸福な暮らしを続けていた。

一方、天上では、悪魔が神に対して喧嘩を売っていた。「いくら敬虔な暮らしをしているものであっても、その敬虔さが報いられないとわかったら、信仰心を失うに違いない」

そこで神は喧嘩を買った。「なら、ヨブに危害を与えてみろ」

そこから先のヨブの苦難は凄まじい。彼は天変地異により、財産をすべて失い、家族は全員死んだ。そしてヨブは、激しい悲しみとともに、神への恨みのことばを口にするようになった。

そんなヨブに対して、独善的な人達が次々に訪れ、悔い改めるようにヨブに言う。しかしヨブは、激しく反論し、耳を貸さない。

そして最後の最後に、ついに神が直接ヨブに語りかける。その話を聞いたヨブは、運命を恨んだ自分が愚かだったことを悟り、真に悔い改めた。神はヨブの運命を逆転させた。すべての財産は2倍になって戻り、また新たな家族が広がり、ヨブは140歳まで幸せな人生を生きて死んだ。

(参考:「旧約聖書ヨブ記」関根正雄訳 岩波文庫)

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ここで奇妙なのは、神がヨブにした「話」の内容である。神は、海、風などの大自然の話をする。そして、馬、カバ、ワニなど、動物の話をする。これらの動物がいかに強くて美しいか…という話を延々とするのだ。

そして最後に一言。「天が下のすべてのものは、私のものだ」

以上、である。この決め台詞で、ヨブは決定的に悔い改めるのである。

なんでこれで、心を動かされるのか、私にはまるで納得できなかった。

しかし、この岩波文庫の「ヨブ記」の解説を読んで、少し理解できる気がしてきた。

ヨブ記が扱っているのは、「信仰、敬虔、善行が、一切何のリターンを生まないとしても、それでも信仰、敬虔、善行を貫くことはできるのか」という重いテーマである。そしてそれに対する「ヨブ記」的な回答は、「自分中心に物事を考えている限り、それは無理っしょ」ということなのだと思う。

神の話を聞いてヨブが認識を一変させた理由は、「自分を中心に世界が回っているわけではない」「自分は、他のあらゆる自然物と同じように、神が創り出したものの一部にすぎない」ということに、気づいたことなのだろう。地球上の生物は、努力や敬虔に関わらず、さっくり他の動物に捕らえられて食われることが多い。川や海は、寒風にさらされたからといって、見返りに温泉に流れ込むことを求めたりはしない。人間も同じであろう。

とは言っても、自己中心的な認識を捨て去ることは、現実には相当難しい。私たちは誰しも、会社に一生懸命貢献しながら給料が上がらなければ、怒りを感じる。悲惨な逆境に置かれれば、運命を呪いたくなる。暗黙のうちに、自分の努力に見合ったリターンが来ることを、期待しがちである。

先人達はどうだろうか?

先日、渋沢栄一の本を読んでいて、「ヨブ記」との共通点を感じた箇所がある。渋沢栄一は、「人生観」を二種類に大別して論じている。

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「幾多の変わった人生観も、これを側面より観察すれば、結局二大別されてしまう。すなわち自己の存在を客観的に観るのと、主観的に観るのとがそれである。客観的というのは、自己の存在は第二としてまず社会あることを思い、社会のためには自己を犠牲にすることも憚らぬというまでに、自我を没却してかかるものである。また主観的というのは、何事も自家本位にし、自己あるを知って、しかる後に社会あることを認めるという方だから、これはむしろ、ある程度までは自己のために社会を犠牲にしても構わぬというのである。」
(渋沢栄一「渋沢百訓」)

渋沢栄一はこのように定義した上で、客観的視点が、主観的視点よりも優先すべきだと説く。人々が主観的視点を追及すれば、「国家社会が粗野となり、卑陋となり、終には救うべからざる衰頽(すいたい)になりはすまいか」(同上)というのは、渋沢栄一の考え方である。

日本の資本主義、企業社会成立のために最も大きな役割を果たした人が、自分を国家社会の一部品として位置づける「客観的」思考の持ち主だったというのは、興味深い。彼が「渋沢財閥」を一切作ろうとしなかったのも、そのためだったのだろうか。

追記)
ただし渋沢栄一は、私利の追求を否定はしていない。別の章では、「国家的観念と自己栄達策とがバランスを取っていることが、処世上重要だ」という趣旨のことを言ってもいる。