今日の朝日新聞夕刊の「窓」欄は衝撃だった。老子の有名な言葉「大器晩成」は、間違いだったかもしれないという。

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昨年末に新版が出た岩波文庫(蜂屋邦夫訳注)によれば、近年出土した紀元前に書かれたテキストでは「大器免成」となっている。「免」は「無」の意味で、「大器は完成しない」というのが本来の老子の考え方だというのだ。

(朝日新聞2009年2月6日夕刊「窓」)

驚いて、老子を開いてみた。守屋洋氏の翻訳である。

(ここから老子日本語訳)

ほんとうに明るい道は暗く見える。
ほんとうに前進している道は後退しているように見える。
ほんとうに平らな道はけわしいように見える。
すぐれた徳は谷のように虚(うつろ)に見える。
純白なものは汚れているように見える。
広大な徳はどこか欠けているように見える。
堅固な徳はどこか頼りないように見える。
質実な徳はどことなく節操がないように見える。
この上なく大きい四角は、角ばって見えない。
この上なく大きい器は完成するのもまた遅い。(大器晩成)
この上なく大きい音は耳で聞き取ることができない。
この上なく大きい形は目で見ることができない。
「道」は途方もなく大きいので名前のつけようがない。
要するに、「道」は万物を生み、万物をはぐくむ根源なのである。

(守屋洋 「新釈老子」)

確かに、「大器晩成」の一文のみ、浮いている感じがする。そもそも、年を経ることに、人間が出来上がっていくという考え方は、老子らしくないように思う。むしろ、無欲で柔弱な赤ん坊こそ、もっとも理想的な存在だというのが、老子の考え方だろう。

これまで自分が、頭を使わずに無批判に古典を読んできたことを思い知らされたようで、軽くショックだった。