ディベートを広める非営利組織(NAFA)で働いていた頃の仲間が集まって、年始に飲み会をやった。

普通に昔話と、近況報告をしていたのだが、アルコールが回るにつれて、議論が始まった。

テーマは、「(キリスト教的な)神は本当に存在するのか。」

普通、こういう議論をしながら酒を飲む人間は、日本にはいない。しかし、われらはディベーターである。腐っても鯛。酔っ払ってもクリティカル・シンキングである。

しかも、議論を始めた二人の片方は、アメリカの神学校に留学し、牧師になるトレーニングを受けて帰ってきたクリスチャンである。対する相手は、民事訴訟法を専攻している、某大学の法学者である。

法学者の挙げた論点は、以下の通り。

・もし(キリスト教的な)神が存在するとしたら、そして聖書に書かれているように神が絶対的な「愛」の存在であり、全能の存在だとしたら・・・その場合には神は(信仰の有無に関わらず)全ての人間を救うはずである

・キリスト者が言うように、「神を信じない者は地獄に落ちる」というのは、アンフェア極まりない

・例えば、フランシスコ・ザビエルが日本に到着する前の時代を生きた善良な人々は、救済されないのか。例えば清少納言が救済される機会を与えられないのは、おかしい。(なぜ彼が清少納言と連呼していたのかは不明。)

一方で、神学者ディベーターは、「神が実際に、清少納言にどう対応するかはわからないし、それは自分も神に聞いてみたいね」と流した。

さらに、世の中に人が存在するという奇跡的な事実が、神の手によらないものだと考えるのは、不自然だと議論した。

彼らは実に3時間近くも神学論争を繰り広げていた。しかし、往年のトップディベーター同士の論争は非常に聞きごたえのあるもので、私は時間を忘れて、議論に聞き入ってしまった。

私自身は極めて日本人的な人間で、あらゆる神仏に平気で手を合わせる。朝は神社に、昼は寺で手を合わせ、キリスト教系の老人ホームで働いていた時には普通にミサに参加していた。「それが普通だよ」とアメリカ人の友人に話したら、"You are risk-hedging"と笑われた。どのタイプの神が本当の神だとしても、一応助かるようにリスク・ヘッジをしているのだと、思われたようだ。

うまい具合に太陽と地球という組み合わせを与えられ、人が生きていくために絶好の環境を与えられた奇跡。その中で、日本と言うすみよい土地に生を与えられた偶然。こういった奇跡や偶然を運命的なものだと感謝する気持ちを、日本人なら誰でも持っていると思う。自分を存在させている、このような奇跡的・運命的なものを「神」と呼んで祈る人もいれば、「おてんとさまのお陰だ」と言って、太陽に手を合わせる人もいる。そのどちらも、私には自然な感情だと思われる。